自画自賛的料理教室

フェイスブックにおける投稿の多くが日々のご飯に関することからも御察しいただけるように、金のない一人暮らしの大学生という立場上、私は自分でご飯を拵えるという機会が多いが、その度に、というかほぼ毎日、そのご飯を、自分自身で自分自身のためだけに拵えたそのご飯を、舌躍らせ、鼻蠢かせ、目輝かせながら食しては、「あぁ、うまい。なんてうまいんやろ。」と感激に打ち震えている。

 

なんてこと言うと、「キミはそんなに料理が得意なのかね。では一遍私の前で得意料理をこしらえてみなさい。」などという人がいるかも知らんが、いやいや、そんなことはない。いや、そんなことはないこともないか。というかむしろ、履歴書の趣味特技欄には「家庭料理」と書くくらいには自信がある。が、いやいや、てかそんなことはどうでもよい。何が言いたかったかというと、すなわち、最近、それは私の「感動の閾値が低い」ということが主な原因なのではないか、と思っているということである。


感動の閾値が低い。これは人として楽しく幸せに生きるうえで大変重要な性質だと思われる。例を挙げよう。例えば、さっき納豆を買ってきた。この時点ですでに感動している。なぜなら、3パック85円の選択肢もあったのだが、私は後ろ髪ひかれながらも、贅沢しているなぁ。という一種の疚しさを感じながらも、なんと3パック93円の納豆を買ったのである。

 

うぬぅ、やっつんたぜ。贅沢しつんたなぁ。と、小さく呻き、しかし一方で小さな幸せに小躍りをしながら生鮮館を後にし、家に帰って米を炊いた。待つこと約30分。炊けたっ!!!ずばっと勢いよく炊飯器を開け、2合の白米が見えたかと思うと、甘美な香りが湯気と共にホカホカ上ってきて私の鼻孔をくすぐる。かっはぁ...!!!もうこの時点で感動に打ち震え、気絶寸前である。

 

納豆を1パック小鉢に移し、練り練りし、カラシとタレの封を切って入れた。感動。なぜならこの納豆、非常にカラシとタレの封が切りやすく手が汚れなかったから。冷蔵庫を閉め、ようとしたが、なぜそのように大胆な行動に出たのか自分自身でも理解できないのだが、その瞬間思いとどまって、2パック目を手に取り、同じ小鉢に移し、練り練りし、カラシとタレの封を切って入れた。感動。激震が走る。くわわわわっ...!!!やっつんた!!こーれは贅沢過ぎや。一食で、お、おまっ、お前。2パック納豆食うんか?!3パック93円ランクやぞ?!!さすがにやりすぎや。やっつんてるわ。

 

と、またもや感動に打ち震えながら、納豆が十分に糸ひくまで十分にかき混ぜ、ホカホカのご飯を丼に盛り、その上から納豆を、かけた。っっっ~~~....!!!声が出せないくらい感動する。なぜなら、本来そんなに綺麗な色ではないはずの納豆が、今は純白のご飯の上で明かりに照らされて、まるで、なんということでしょう、磨き抜かれた宝石のように輝いているでは、あーりませんか。

 

口に入れるまでにこんな感動しっぱなしで、俺、大丈夫か?と、期待と不安に鼓動を速めながら、恐る恐る、納豆ご飯を口にいれ、噛んだ。納豆特有の発酵臭、ご飯のホカホカ、カラシのツンツン、それらを感じながら、とぅるんとぅるんと噛み続けると、納豆の押しの強い旨味、ご飯の甘味、タレのうまじょっぱさが、それはそれは感動するくらい感動もので、ちゅるるんっと飲み下すときには、私は失神しかけていた、というか気づいたら丼が空になってたので、失神していたのであろう。

 

と、ここまで書いて、ふふっ。ていうか、それもう、料理じゃないやーん。と自分で自分にツッコミを入れてへらへら笑い、今度はお茶漬けにして、食した。またもや感動した。