自由とか愛とか幸せとかについての詩が走ってたら思い浮かんだ

空に昇っていく風船は、何にも縛られることなく、ゆらりゆらりと揺れながら、小さくなって、最後には透明になって、地上からは見えなくなった。あの子の手にある風船は、あの子の手からは遂には離れることはないけれど、それでもあの子は風船を持っていないときより可愛いし、風船もあの子の隣でより美しく、僕には見える。

君は野生の動物を飼おうとするべきではないというけれど、野を駆け空を舞いたいというけれど、君のいう野生の鳥、まさにその鳥は実は子供達の餌を求めて奔走し、巣に帰っているところだった。でも僕には、その鳥は少なくとも君よりは美しい生を生きていると思えるんだ。

君は彼を麓に残し、高みを目指せと意気込んで、1人崖を登り始める。その時君の目には彼は、挑戦を拒む、弱き者に映るだろう。さて、君は君の登る山の頂が見えたところで、強風と吹雪に打たれながら、もはや登れなくなるだろう。その時君は、隣の山に彼を見出す。彼は先を行く者を支え、続く者を引っ張り上げ、また彼も支えられ引き上げられるのだ。その時君ははじめて、自分が登っている山が天に届く神の山嶺ではなく、幻想だということに気づくだろう。彼は雲の、さらにその上へと登っていく。

舛添さんには同情しちゃう

文句を言いたい。

多くの人がSNSで文句を言って憤激して、それを周囲に見てもらうことでストレス発散したりヘロイックなキブンになって喜んでるように見えるし、俺だってたまにはいいじゃないか、と思った、ので言う。かなり子供っぽい欲望だが、俺だってたまにはいいじゃないかべつに。めっちゃ言い訳するやん。

私は舛添都知事に同情して擁護したくなっちゃうタイプである。

手足が優秀(もしくは手足だけで解決できるような問題しか起きないくらい平和)で、力、ヒマを持て余し、その上誰も自分に興味がない状況だったら、自分だってまぁ、魔がさしちゃうだろうなぁ。と思うからである。

ので別に舛添都知事のパーソナリティに文句があるわけじゃない。文句があるのは、報道機関の態度である。

まずは「問題をあらかじめ発見できませんでしたごめんなさい」と謝るのが筋だろうっ....!!生の事実、一次情報に1番近いキミらの仕事は事実から推測して起こりそうな悪いことを未然に防ぐことだろっ...?!それができずに、あるいは意図的にせずに、汚職やスキャンダルが起こりまくってから鬼の首を取ったよう報道したてるなんて、自分らのバカさ無能さをアピールしてるようなものじゃないのか...?!

号泣議員にしろ、舛添都知事にしろ、あるいはちょっと種類が違うかもだけど、バトミントンのお兄さんにしろ、ああいう系の報道を見ると、人を食い物にしてビジネスしてるようにしか感じれず、ほとほとウンザリする。正義感に溢れた記者もいるんだろうけどさ。

報道することがない地方行政で、みんな大好きスキャンダルが起きれば儲かるしキミらは嬉しくてしょうがないのかもしれんが、もうちょっとちゃんとしろよっ....!と言いたくなる、ので言った。少なくとも人をウンザリさせるような記事をいつまでもいつまでも書き続けるのはやめてちょうだい。

と言ったおれの投稿がウンザリか、ごめんね。














どうしてそこまで言い切れる。

就職活動生という立場上、ややフォーマルな感じで目上の方とお話する機会が多々あるが、そうなるとやはり大切だなぁ。気をつけなければならんなぁ。と深く反省させられるのが、話し方である。


堂々とはきはきと話して「俺はエクセレントでオーサムな男だぞ。」というメタ・メッセージを送信できさえすれば、結構しょうもないことでも割と立派に聞こえる。日本語とはそういう言語である。ならばネイティヴジャーパニーズスピーカーとして生を受けた以上そういうストラァテジーも積極的にエンプロイしていかんければならん、と思い最近意識してぱきぱきしゃべろうと努力している。いや、ほんとに。スィリアスリー。


ハウエーヴァー、非常に由々しき事態なのであるが、一方で度々フェイスブックでどうでもいい事をやたらと長くグダグダ書いているためか、最近日常でもスパッ。と、スマート。に言い切ることができなくなってしまい、性格のほうまで影響されてこれ優柔不断で何となく言い訳がましい、ウジ男になってしまったのである。


ソシュールさんという昔ヨーロッパのどこかに住んでいたリングウィストも「私たちがどんなことばを使うかが、私たちをいろいろと規定するっぽい」的なことを言ってたらしいし、メイビープラァバブリーポッスィビリーそういうことなんだろう。


と、ここまでちょっと横文字を多用しイノベーター感、変革者感を出すことで自分自身を誤魔化してきたが、いや、これは実際ほんまにヤバい。正直言って俺、普通に、焦ってる。どうヤバいかと申し上げると、例えば先日ある企業様で集団面接があり「自己紹介がてらに趣味でも、教えてください。」的なことを言われた。他の2人は正々堂々、シュビッ。と、スパパァン。と「テニスです!」とか「読書です!」とか言ってたが私はというとウジ男なのでズパッ。っと言い切ることができず、


「そ、そうですね、料理、ですかね、いや、でもしかし実際のところは別にレシピや食材を吟味したりとかそういうことはせずまぁ、日々のご飯を拵える、と申しますか、どっちかというと家事のようなもので、となりますとこれは誰でもすることですしこれを趣味と呼ぶのははばかられる、もしかすると、これを趣味と呼ぶことを不快に思われる方がいる可能性を否定できない気がしないでもないこともないこともないかもしれない場合も考慮した方が良さそうな気さえしてきて、そうなるとやはりまずは、趣味、という言葉の定義から始めたら良いのではないかと私なんかは愚考しておりま、」


と、そこまで言って面接官が怪訝な顔をしているのに気付き、ごめんなさい。と謝罪、脂汗、以降その面接官は私に質問をしてくれなかった。もちろん落ちた。


これはあかんわ、ヤバいわ。今日からは正々堂々、即断即決、精悍で歯切れの良い男にならん。と決意し、善は急げ、今日の夜ごはんはアジフライ丼にしようと即決した。おほほ。よかったぁ。よかったぁ。これで次の面接はバッチリだぜ。と笑いながらスーパーへ行ったが自分で揚げるか出来合いを買うかで1時間悩み、そうしているうちに鮮魚がなくなったため出来合いを買うことにしたが、それ以降も2つ買うか買わないか、揚げ直すか否か、胡椒が切れてるため買い直すか否かで散散悩み、今は出来上がったアツアツの丼を前にして醤油かウスターソースか決められず、うんうん唸ってる。








 

 

 

自画自賛的料理教室

フェイスブックにおける投稿の多くが日々のご飯に関することからも御察しいただけるように、金のない一人暮らしの大学生という立場上、私は自分でご飯を拵えるという機会が多いが、その度に、というかほぼ毎日、そのご飯を、自分自身で自分自身のためだけに拵えたそのご飯を、舌躍らせ、鼻蠢かせ、目輝かせながら食しては、「あぁ、うまい。なんてうまいんやろ。」と感激に打ち震えている。

 

なんてこと言うと、「キミはそんなに料理が得意なのかね。では一遍私の前で得意料理をこしらえてみなさい。」などという人がいるかも知らんが、いやいや、そんなことはない。いや、そんなことはないこともないか。というかむしろ、履歴書の趣味特技欄には「家庭料理」と書くくらいには自信がある。が、いやいや、てかそんなことはどうでもよい。何が言いたかったかというと、すなわち、最近、それは私の「感動の閾値が低い」ということが主な原因なのではないか、と思っているということである。


感動の閾値が低い。これは人として楽しく幸せに生きるうえで大変重要な性質だと思われる。例を挙げよう。例えば、さっき納豆を買ってきた。この時点ですでに感動している。なぜなら、3パック85円の選択肢もあったのだが、私は後ろ髪ひかれながらも、贅沢しているなぁ。という一種の疚しさを感じながらも、なんと3パック93円の納豆を買ったのである。

 

うぬぅ、やっつんたぜ。贅沢しつんたなぁ。と、小さく呻き、しかし一方で小さな幸せに小躍りをしながら生鮮館を後にし、家に帰って米を炊いた。待つこと約30分。炊けたっ!!!ずばっと勢いよく炊飯器を開け、2合の白米が見えたかと思うと、甘美な香りが湯気と共にホカホカ上ってきて私の鼻孔をくすぐる。かっはぁ...!!!もうこの時点で感動に打ち震え、気絶寸前である。

 

納豆を1パック小鉢に移し、練り練りし、カラシとタレの封を切って入れた。感動。なぜならこの納豆、非常にカラシとタレの封が切りやすく手が汚れなかったから。冷蔵庫を閉め、ようとしたが、なぜそのように大胆な行動に出たのか自分自身でも理解できないのだが、その瞬間思いとどまって、2パック目を手に取り、同じ小鉢に移し、練り練りし、カラシとタレの封を切って入れた。感動。激震が走る。くわわわわっ...!!!やっつんた!!こーれは贅沢過ぎや。一食で、お、おまっ、お前。2パック納豆食うんか?!3パック93円ランクやぞ?!!さすがにやりすぎや。やっつんてるわ。

 

と、またもや感動に打ち震えながら、納豆が十分に糸ひくまで十分にかき混ぜ、ホカホカのご飯を丼に盛り、その上から納豆を、かけた。っっっ~~~....!!!声が出せないくらい感動する。なぜなら、本来そんなに綺麗な色ではないはずの納豆が、今は純白のご飯の上で明かりに照らされて、まるで、なんということでしょう、磨き抜かれた宝石のように輝いているでは、あーりませんか。

 

口に入れるまでにこんな感動しっぱなしで、俺、大丈夫か?と、期待と不安に鼓動を速めながら、恐る恐る、納豆ご飯を口にいれ、噛んだ。納豆特有の発酵臭、ご飯のホカホカ、カラシのツンツン、それらを感じながら、とぅるんとぅるんと噛み続けると、納豆の押しの強い旨味、ご飯の甘味、タレのうまじょっぱさが、それはそれは感動するくらい感動もので、ちゅるるんっと飲み下すときには、私は失神しかけていた、というか気づいたら丼が空になってたので、失神していたのであろう。

 

と、ここまで書いて、ふふっ。ていうか、それもう、料理じゃないやーん。と自分で自分にツッコミを入れてへらへら笑い、今度はお茶漬けにして、食した。またもや感動した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不自然なくらい不自然

長年スポーツをしていてしかも最後の3年間は身体のみで戦う陸上競技に没頭していたからか、私は鍛えられた身体や巧みな身体運用に何とも言えない美しさを感じるたちであり、例えばマイケル・ジョーダンの豪快なスラムダンクウサイン・ボルトの天を駆くようなダッシュ、バレエダンサーのしなやかなジャンプなどをみては、はぁはぁ言っているが、一方で、普段の日常生活でもそういった他人の身体運用に目がいってしまい、しかし、日常生活でそんな素晴らしい身のこなしをする人間がいるわけなく、もっぱら「そらなんじゃらほい」て感じに不自然な身体運用に目がいってしまい、呆気にとられている。

 
例えば、花見のブルーシートの上で涅槃仏のように横になっているが、お釈迦さまのように脱力した状態にはなれず、どう見てもバランスをとるのに必死で、不自然に身体が硬直している上に顔までひきつってしまっているお兄さん。例えば、普通に手にもって歩いて登ればいいのに、何か威信をかけた戦いのように必死になりながら緩やかな坂をローラーボードっていうの?あれで登っていくお兄さんのひきつった右脚。例えば、電車に乗り遅れまいと、もしくは、信号を渡り切ろうと、一生懸命、手に荷物をいっぱい引っ提げて、必死の形相で、もがき苦しむようにバタバタと走るオバサンオジサン。高めのヒールを履いて、トレーニングかなんかみたいになってしまっているお姉さんの浮き上がったひらめ筋。などなど。腑に落ちん。
 
しかし、そのような不自然な身体運用のなかで、最たるものが、自転車の立ちこぎをしているお兄さんお姉さんであろう。
 
多くの場合、割と痩せているお兄さん、お姉さんが、多くの場合、さび付いたママチャリを、なんとなく肩をいからせた感じで、肘を右へ左へ交互に突き出すことでバランスをとりながら、全身全霊、全体重をかけて1ストロークストローク踏み出し、ぎぃぎぃ言わせて、強張らせた身体に鞭打っては、苦悶の表情を浮かべて、ゆっくり、ゆっくりと加速していく。
 
腑に落ちん。なぜ、いったいなぜ、彼らはあんなに必死になって加速するのか。普通にこいでいればいいものを、なぜ、不自然なまでに全身を強張らせながら自転車をこいでいるのか。そんなに急いで、どこに行くのだろう。お前はいったい何を生き急いでいるのだ...?
 
しかし、それ以上に腑に落ちん、というか、興味深いのが、そこまでして必死になって加速したと思ったら、突然こぐのをやめ、右ペダルと左ペダルを同じ高さに調節し、その結果、上体の位置も一段高くなるため腕をピンと伸ばし、何かから解放されたかのような爽やかな表情を浮かべているが、それでもやっぱり変な感じに硬直している彼の身体である。まるで「われわれは自由に向かって強制されている」というか、自由の学風と世間で言われるが故に、自由に行動しなければいけない、という観念に縛られているというか、そういう矛盾を孕んだ京大生のカリカチュアのようではないか...!!
 
腑に落ちん。全く説明がつかない。どうしたことか。と半ば絶望しかけていたところ、前方から、例の、よくいる感じな典型的な男子学生が立ちこぎをしてやってきて、例のごとく、一段と高い視点から私を見下すその目を見たとき、すべてに合点がいった。その目は「ははっ、愚民がこっちを見ている。が、しかし、ははっ。なんだあのアホ面は。なんも気にすることはないあんなアホ面のことだ、蚊程度の脳みそも持ち合わせていないに違いない。ははは。無視無視、蟲師だ。」と、言っていた。
 
なんだお前!俺を高いところから見下し、いい気分になるためにそんなことやってるんだな!?あぁいいよ。そっちがその気ならいいよ。やってやろうじゃないか。降りて来いよさぁやろうぜ。びびってんじゃねーぞ。こら。
 
なんてびびって言えるはずもなく、家に帰ってコタツに入ってくそぉぉ。と小さく叫び、寝ころびながら不自然な感じに身体をのけ反らせ机の上の水を飲もうと思ったら、背中がつって、あぁ!ってなった拍子に水をこぼした。
 
 
 
 
 

咲いた桜になぜ駒つなぐ

桜が好きだ。

 

いや、好きというか、もはや人生だ。桜を見ると血湧き肉躍る。大地の鼓動とリンクする。春に桜を見るために生きていると言っても過言ではない。あぁ。季節が巡り今年もまたキミに出会うことができた...。ってやっぱり大仰すぎるか。

 

ちょっと前は八重桜が好きだった。昔「八重桜は厚化粧のオバサンっぽくて萎える」みたいな文句を見たことがあるが、私はそうとは思わない。むしろ、何というかなぁ、体育祭の時とかに使う、ポンポン?ビニールを結んでちぎったやつ?あるじゃないですか、ピンクとか赤とか黄色の、あれを持った元気のいい同級生か後輩(ここは先輩では決してない)の女の子たちが黄色い声援をあげてきゃいきゃい言ってて、あぁ、まさしく百花繚乱...!!!てな感じの中でしかし、ひときわ輝いているひとりの女の子、そう、気になるアノ子を濡れた眼差しで見つめていると、こちらに気付いてにっこり笑いかけてくれる、みたいな、そういう爽やかな印象だ。ふぅぅ、八重桜、青春だぜ。久しぶりに思い出した。吠えろ!!青春!!ってそれはNARUTOのガイ先生だな。今の俺はせいぜい、吠えろ!!清酒!!だぜ、オッサンかよ。

 

しかし、今はむしろソメイヨシノのほうが好きだ。八重桜がポンポン持った元気のいい黄色い声の女の子たちならば、ソメイヨシノは清純で華奢で可憐で穏やかな大人の女性、具体的にいうなら月桂冠のCMに出てた仲間由紀恵さんみたいな、がしっとり濡れた眼差しでこちらを見つめてくる、みたいな、そういう、なんというかな、魅惑的でロマンチックというか、率直に言ってしまえばエロいというか、そんな印象だ。うん、ちょっとキモいな。桜みて何連想してんの俺?

 

枝垂桜も良い。でも、なんというかなぁ、枝垂桜は個人的に、夏の終わりのあの日観た花火大会、その花火大会の最後の一発が弾けて火花が、ばらばらばらーって闇夜に落ちてくるのをじっと見ていて、あぁ消えてしまった、と思ったら最後一瞬だけもう一度明るく輝いて見える、みたいな、儚くも美しい、みたいな、尽き果てる前の最後のきらめき、みたいな、そういう印象なんだけど、そこでさらに連想が進み、私の頭に、少し歌っては床に臥せ、また少し歌っては床に臥せるフレディ・マーキュリーが、命が尽きる直前に歌い上げた「ショウ・マスト・ゴー・オン」の純度の高い歌声が蘇るとき、あぁ悲しい哉、なんか違うなぁ。ってなる。フレディかぁ。ってなる。ひどいなぁもう。でもフレディじゃなくて、昔のアニメではお決まりの、白血病で床に伏している、佳人薄命、って感じなヒロインが死ぬ直前に見せる涙もしくは運命を受け入れて、すべてよし、と言わんばかりにみせる笑顔、が連想されるときもあって、それはもうその時の俺の調子というか気分の問題なんだけど、その時はいいよね、枝垂桜も。わかってくれるかなぁ、わからんかなぁ。自分でも何言ってるかわからんもんなぁ。

 

花筏、これも風情があってよい。川面に浮かび流れていく、それ自体美しいけど、散った名残の桜の花びらを見る一方で、脳裏には頭上にあるべきだった満開の桜が連想されて、しかも連想された満開の桜というのは実際のところ本物よりも美しかったりする、みたいな。中秋の名月に雨が降っても、「雨月」とか言って厚い雲の向こう側にある名月をイメージして楽しむ、みたいな、そういう楽しみ方というか。ね。ちなみにこの一文を敢えて入れて風流な奴ぶるのは、前段までに繰り出した変態的連想の悪いイメージを払拭したいという、私のさもしい企みであります。

 

山桜、本居宣長しか思い浮かばない。朝日に匂ふ山桜花。日本文化の核心というか、日本の精神性の神髄というか、そういうものに触れようとしている緊張感みたいなものがあって、「ふつくしい...」とか言ってる場合じゃない。ちなみにこの一文を敢えて入れて勉強してマスぶるのは、前段(以下ry

 

その他にもいろいろ種類があるらしいが、しかし一番好きなのは、大好きな桜の下で呑む酒だ。とはいえ、もう暗いし、ひとりでやっても面白くないので、ぱちゃあぱちゃあ、と写真を撮った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

厳密に言ってくれたまえ

最近、と書くともしかすると、最近、という時間概念はあいまいなものであり、例えばお前にとっての最近は過去1週間に起こった出来事のことを指すかも知らんが、私にとっての最近は過去1年間のことである、という印象の食い違いが起こる可能性が大であり、こんな厳密性を欠いた文章および厳密性を欠いた人間の述べる意見など読んでられん、不快だ、馬鹿野郎。なんて言ってくる人がいるかも知らんが、大きなお世話だ。そもそも俺はお前なんかのお目に入れるために書いてるんじゃねーよ、勝手にさせろ馬鹿野郎。って誰に言ってるのかわからないしそれに厳密に言ったところでそんなに難しい話ではないので厳密に述べさせていただくと、1か月前くらいすなわち私がドイツから帰ってきた当たりくらいから「はせけんあのフェイスブックの投稿なんなんw」とよく聞かれる。

 

あのフェイスブックの投稿は、いつも私が書いている日記に書ききれない、心の叫びである。

 

と、書くとやはり厳密性に欠けるなぁ。日記といっても様々な様式をとるからね。なので少し厳密に言わせてもらうと、ドイツ連邦共和国バイエルン州ミュンヘンのルードヴィッヒ・マクシミリアン・ユニバーシティ・ミュニックの近くにある小さな書店で西暦2015年10月中旬に私長谷川健太が購入したトルコ製の黄緑色のノートに、原則毎晩、酒を呑んで帰ってきたりした日は書かずに2,3日に1回、原則シャープペンシルで、時々ボールペンで、その日の出来事や思ったことを書いている、がそこに書ききれない感動、歓喜、絶望、怒り、悲しみその他もろもろ心情の吐露が吐露したものである。

 

例えば今日も、心動かされる機会があった。厳密にいうと2回あった。1つ目はシューカツの集団面接というものである。

 

と、書くとややもすると厳密性の欠如により皆様を深い混乱に陥れてしまうかもしれない。言い直そう、厳密にいうと、京都に本社を置くメーカーの本社ビル4階の小さな会議室に、大体40歳後半くらいでなんとなくテレビのコメンテーターでこういう感じな顔の人いそうだな。と思わせて来るようなオジサン面接官1名の前で、似通った黒のリクルートスーツに身を包んだ男子5人、厳密にいうと私大出身者4名と私、が同じ質問をされて順番に語っていくという、午後3時30分に開始して約1時間にわたり繰り広げられた質疑応答、である。

 

そこで私は驚愕した。

 

と、書いたりすると、驚愕なんてのも程度問題で私としては少し驚いたくらいでは驚愕、なんて大仰な言い回しをしたりしないが、お前はいかにも盛りに盛って話をしそうなタイプだな、信用できん。なんていう人が出てくるのもあるいは仕方のないことである。そんなつまらない理由で読むのをやめてしまう方がいたらそれは書いてる私も読んでるその方も両方にとって不幸というものだ。なのでやや厳密に、比較的に客観性を維持しているたとえ、事実もって言わせてもらうと、たとえば、うーん、難しいな、たとえば私は驚愕しすぎて、ワンピースの錦えもんがゾウに登場したときのネコマムシとイヌアラシの驚愕した顔、のような顔になってしまい、さらに厳密に付け加えるなら、ひ、ひぃぃ...と小さく呻き、少しふるふるし、失禁しかけた、面接官を前にしているにも関わらず、である。それくらい驚愕した。

 

と、ここまで書いて、実は結構疲れてきている。厳密にいうとコタツに入ったままだらしなく横になり身動きが取れず、寝返りを打とうにも打つ気力すらない、背中がかゆいがぽりぽりする気力すらないというような状態であり、明日は大阪で、厳密にいうと中之島あたりで面接がありそれに出席しなければならないが、このままだと寝過ごして出席できず、もちろんその後の選考にも残れず、就職はできずできても出世できず、金がないから女の子にもモテず一生1人で生きていかざるを得ない可能性が大なので、このへんでやめようと思った現在夜11時、厳密にいうと11時3分。